ADRA Japan 「ラオス便り」

木曜日, 5月 25, 2006

自分の道は自分で切り開く。

おそらく、今から書くこととタイトルはあっていないと思う。
ただ、今日、このメッセージを書こうとしたときに、ああ、ラオスにいるのなら、自分のやりたいPJは自分で提案していかなくちゃと思い、そんなタイトルにしました。

シェンクアンの出張。出張の本来の目的は、学校に通う生徒のために寮を建設してほしいとアドララオスに依頼があったのでその可能性を探ることであった。が、結局、アドララオスは寮建設のプロジェクトは申請せず、シェンクアン県の最も貧しいクン地区の村に水・保健衛生PJを申請することになった。
ただ、ここからが、納得できないこと。日本政府のODA,日本だけでなく、オーストラリア政府も。学校建設や病院建設は、日本政府が言う子供の基礎教育支援と認識されていて比較的、政府に支援されやすい。が、寮の建設、遠方に住む生徒が学校に通う為にすむ寮の建設は、直接的に生徒の教育に結びつかないために政府からの援助を受けにくい。資金援助を受けられないわけではないが、難しいようだ。でも、申請はできるので、やってみなくてはわからないと思う。しかし、私は、学校に生徒が通える環境があってこそ学校建設をする必要があるのではないのか。学校があったとしても、生徒が学校にこれなくては意味がないのではないのか。ある人はいった、「生徒が、2時間歩いて通学すればいいんじゃな?」まだ、10歳に満たない小学生たちが、2時間、決して安全といえない道を歩いて通学する。梅雨の時期は道が閉ざされるときだってあるかもしれない。まあ確かに不可能ではないが、2時間歩いてきた生徒が、ましてや朝食を食べるお金がない村の子供(これはあくまでも推測)が、授業に集中できるのだろうか。ぽわーんと授業を聞いてる生徒が想像できる。初めての海外赴任、そして始めての出張、そこでみた、現実の世界。授業を受けられる環境にあったのに、ボーっとしていた私の幼少時代、いや大学時代もか。生徒の両親が作った、傾きかけたわらぶき屋根の寮で、私も昔習った関数の勉強をしていた彼女。わからなかったら、両親に聞ける環境にない彼女。彼女はとても澄んだ目をしていた。なんとか、力になれないかなあと思った。そう、思っていたよりもラオスの数学のレベルは高かった。私が見た学校の寮は、他の貧しい地区に比べてましなのかもしれない。でも、要請があり、私たちの援助を必要としている。だから、私は何かしなくてはいけないと思う。寮のPJは採択されにくいから、あきらめる、それはもうすこしがんばってからにしたい。ネバーギブアップって、こういうことを言うのだろうなと思った。

そして、私が最終的に出した結論。アドララオスは、寮建設のプロジェクトをオーストラリア政府に申請する予定はない。だったら、私が資金援助先を探してみる。デニソンに相談。了解をもらい、探すこと数時間。で、見つかった。日本のある財団の資金援助プログラムで、外国のNGOが申請できる。もちろん、私たちの申請が採択される可能性なんて、ほんの少しだと思う。ましてや、そこの財団だって、学校の寮にお金は援助できませんというかもしれない。でも、可能性は少しでもある限り挑戦をする。教育とは、学校建設を指すのですと、私の期待に反することを言うかもしれない。まずは、じっくり観察ですな。

アパートでの新しい生活も、近所のともみさんとさんに助けられて少しずつ快適になった。ラオス語も、今日何するの?今、時間ある?明日の予定は?などの文章も覚えてきた。バイクの練習もしなくちゃ。
忙しくなってきたけど、それが心地よい。